試しては枯らし、枯らしては試す。「ベランダー」エッセイが最高に面白い。

201610-034
先日、買い物中にふと見かけて気になった本。

庭のない都会暮らしを選び、ベランダで花を育てる「ベランダー」。・・・いい加減なような熱心なような、「ガーデナー」とはひと味違う、愛と屈折に満ちた「植物生活」の全記録。  

いとうせいこうさんが「ベランダー」を名乗り、ベランダ園芸に情熱を傾ける日々を綴ったエッセイ集「自己流園芸ベランダ派」でした。我が家も庭があるとはいえ、使えるスペースの大半はコンクリートテラスなので、この「ベランダー」というのが琴線に触れたのだな。
これが面白くて面白くて。あっという間に読み終わり、前作といえる「ボタニカル・ライフ」もまんまと手に取ったのでした。

 
 

スポンサーリンク

植物と一喜一憂する。わかる。

花が付くやつとか実が付くとかじゃないとなんか損した気分になってしまったり、珍しいニッキの鉢植えを植木市で誰よりも早く見つけて悦に浸ったり、枯れた鉢が本当に枯れたのかわからなくて処分するのをためらっていたりと、どれも「あるある」と思いながら読みました。

狭い、植物にとって快適でもない空間「ベランダ」で、ひたすらに水をやり、専門的なことをやってるでもなく、自分で観察・考察してよかれと思う世話をして観察して、うまく咲いたり実がつかなかったり。
小気味のいい文体で綴られた、植物との暮らしに一喜一憂する様は、植木をいじったことがある人なら必ずニヤリと共感するところがあるはずです。

たびたび枯らしては新しい植物を買うという描写も多く、先日家庭菜園を壊滅させた自分に重ねてなんだかちょっと、ホッとしたのでした。

 
 

スポンサーリンク

ボタニカル・ライフ

きちんとした知識のもとに植物を育てているわけでもなく、常に美しくその容姿を整えているわけでもない。まるで山賊が美女でもかっさらってきたかのように不器用に、そしておどおどと俺は植物を見つめてきたのだ。

コミカルな文体ながら、「見つめてきた」というだけあって植物のふとした描写がすごい。花びらの細かなグラデーション、根の張り、花の散り方、しおれてる様など、本当につぶさに観察しているんだなと思います。
僕は写真を撮る派ですが、考えてみれば”撮る”ことで”観察”を代用していたかもしれない。

 
 

スポンサーリンク

自己流園芸ベランダ派

都会の狭い空の下、我々ベランダーはいつだって必死に植物の世話をし、枯らしてしまってはため息をつく。そして何度も何度も花屋の店先に向かう。だが、それでいいのだと俺は言いたい。

「ボタニカル・ライフ」同様に、「植物の生態に観察係として参加させてもらったその記録だ」というスタンス。その観察の果てに、植物はコントロール不可能である、園芸は植物を支配することではないのだ、と結んであります。

散々枯らしてひどいように思えるけど、それすら当たり前のものと受け入れる、植物という絶対的な存在への信頼。それがあってこそベランダで起こせるサイクルで、それゆえにどこまでも愛情を注ぐのがベランダー。
そんな関係性なのでどこか植物に対して下手に出ている感じがしたり、逆にとても崇めていたり。でも根底はどうやっても植物へのリスペクト。

ジワジワとそんな思いが伝わってくる本でした。

園芸家の柳生真吾さんの解説文も、短いながら名文です。

 
 

スポンサーリンク

ふと、植物に思いを馳せたいときに。

元々の媒体がネット掲載か新聞のコラムか、というくらいで大きく変わりはない2冊ですが、1冊読んで面白かったらもう1冊欲しくなってしまうはず。
抱腹絶倒では決してないあたりも、寝る前の5分とかトイレとか通勤電車とかで読むのに最高。日々になかでふと植物に思いを馳せたいときに手に取りたい。

思いを馳せすぎて花屋さんに直行し、鉢植えの一つも買いたくなることでしょう。